治療院経営ラボ代表の松村です。
僕たち治療家という職業、テナントを借りて治療院を構えて院を経営している人、雇われている人、どちらにおいても人生において仕事をしている時間はとても長いです。
例えば開業しているなら、1日8時間の受付時間だったとしても院の掃除だなんだであったり、銀行回りであったり、それこそブログを書いたり動画を撮ったりYouTubeでのコメントに返信したり・・・・となると、人によっては24時間中の半分近くを仕事に費やすことになります。
週2回休みを取ったとしても、週5日のうちの半分、すなわち週2.5日は仕事の時間となると結局人生における半分以上の時間を仕事に費やしていることになります。これが事業資金を借入して、開業したばかりだと下手すると休みを作らないとか、あって週1日とかというペースになると、もっともっと仕事時間の比率が上がっていくわけです。(まあそういう職種で、かつ健康に携わっているからこそネットワークビジネスが流行りやすい業界なのかもしれませんね)
被雇用者であれば、自身の実質の労働時間を出して四則演算すれば、例えば月の何割は仕事時間であるか算出できると思います。
一度治療院を開業すれば、3年や5年で「はい、終わり」とはできません。
独立してる、してないに関わらず、治療家という職業を選んだ時点で、技術の探究という〝宿命〟も持ち合わせます。(なぜなら治せないままだと罪悪だから)
なんにせよ治療家という職業を目指してこの業界に入ってしまえば、20年以上はその人生の大半を仕事に費やすわけですから、どうせなら真の意味で〝幸せ〟でいられるほうがいいと思います。
少なくとも僕は。
今回は治療家が幸福感を感じながら仕事をしていくための条件について書かせていただこうと思います。
自分はどんなタイプか?
先日東京で長年教わっている手技の研修に参加していたときに、手技を教えてくださる先生と治療の話になりました。
手技の先生と僕は結構性格的に似てるところがあり、治療家という仕事を選択した動機もほぼ同じでして色々と意気投合する部分も多く(恐れ多いですが)、色々なところで価値観が合うので色々なお話をさせていただくことが多いです。
手技の先生はよく
「僕がもし料理人なら『味薄いですか?』といちいち聞いて、お客さんが『薄い』って言ったら『はい!わかりました!』と言って醤油や塩を足したりする、そんなお客さんの顔色を伺って、お客さんの意見に左右されて味付けを変えるような料理人は嫌だ、自分が良いと思う料理を出して、それを美味いと言ってくれるお客さんを相手に仕事をする、そんな料理人のほうが職人だと思うしそうなりたい」
とおっしゃっています。
実際、手技の先生が今の手技に出会う前は、こってるところに鍼を打ったり、お金のために患者さんの顔色を伺うのが嫌になって、治療家を辞めて故郷に帰ろうと思っていたそうです。
そんなときに手技に出会い、鍼灸免許を取得したにも関わらず鍼灸を捨て手技だけで生きていくことを決められたそうです。
これには僕も深く共感させられました。
僕自身、修業として入った整骨院で最初にやらされたことはマッサージ。
まあ最初にマッサージを覚えるって、もしかすると他の手技を覚えるためにも相当役立つとは思います。
しかし、マッサージって「強さどうですか?」とか「どこ辛いですか?」とか聞いてそれに合わせないといけないので、術者と患者との立場がどうしても患者が上、術者が下となりやすいです。
僕自身もそれがどうしても嫌でした。
うちの院のサイトの院長ヒストリーのページの途中や別の記事でも書いていますが、僕が治療家になった動機はそもそもがお金のためにヘコヘコしないといけない、そんなコメツキバッタになりたくなかったから。
「先生、ありがとうございます」と頭を下げてもらいながらお金を支払っていただけるようになりたかったんです。
でもマッサージだと「ありがとう」とは言われるものの、別に頭を下げて感謝されるほどのことでもなく、下手すると「にいちゃん、もっと強くしてや」とか「全然当たってない」とか言われます。
料理屋行って「もっと塩入れろや」とか言うか普通?と僕は思うんです。
でも、それが罷り通る。
それが本当に本当に本当に本当に・・・・・・・本当に嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で仕方ありませんでした。
今でも吐き気がするほどいやです。
僕はそういうタイプ。
それだけが正しいというわけではなく、これはタイプです。
逆に、「にいちゃん、もっと塩入れてや」と言われて「はい、喜んで!」とノーストレスで言える人もいらっしゃるでしょう。
それもまたタイプです。
あなたはどんなタイプですか?
もし本当は嫌なのにお金のために自分に嘘ついて「患者さんの喜ぶ顔が見れるならなんでもいいんです」とか言うならそれは間違い。
一度、自分の本心をしっかりあぶり出してみてください。
治療家という仕事の魅力
治療家という仕事って
自分がなりたいと思った職業が他者にとって必要不可欠なものである
という点で非常に魅力的だと思うのです。
どこかが痛い、辛いという状況は誰しも起こり得ます。
コロナ騒動のとき、飲食業は休業させられましたが我々は休業要請は出ませんでしたよね。(有資格者限定)
行政が、コロナ騒動で健康不安もあるからこそ休業しないで開けてくれという文面を出していましたね。
僕は何も、えらそうにふんぞり返っていたいと思ってるわけではありません。
でも、お金のためにペコペコ下げたくない人間に頭を下げ、思ってもいないお世辞を垂れ流したくはないです。
期間限定、たとえば3年間とかの短期間で、かつそれをすればもう一生そんなことをしなくてもいい、仕事もしなくても贅沢三昧の生活ができるならその3年間だけは悪魔に魂を売り倒して精神と魂を削って頑張りますけど、そうでない以上はやりません。
でも、治療家ってそんなことしなくてもいいです。
患者さんの肩がこってようが、腰が痛かろうが僕たち治療家は客観的な検査をして、悪い部分を見つけてそれを改善させるために技術を施すわけです。
そしてその結果も、患者さんが判別するものでもなければ、こちらの主観でもなく検査で結果が出るわけです。
ホテルマンなんて僕には務まりません。
お客様の要望を聞き、さらにその上をいくようなおもてなし・・・
なんて絶対に無理です。
明らかにホテル側の落ち度がある場合は仕方ないですが、窓からアレが見えない、思ってた部屋と違う、枕が柔らかすぎるだ硬すぎるだ・・・・そんなワガママに僕は笑顔で対応することはできません。
多分「いやなら帰れよ、お前」ってなります。
でも、治療家ならそんなことしなくてもいいです。
ちなみに僕は、肩こりの患者さんが来院されて、その患者さんが明らかに揉んで欲しそうなオーラをバンバン出してるときは、絶対に腰から下しか触らないで治療すると決めてます。
結果を出してしまえば、それでも患者さんは継続してくださり、そして身体が楽になることで悪かった態度がなくなったりちゃんと返事をするようになったりして「ありがとうございます」と言うようになるっていうのは本当に良い職業だなと思います。
僕にとって、治療家という仕事の魅力はそういうところにあります。
また、僕は他の治療家の先生もみんな、他人のワガママに付き合わず、逆にそういう理不尽なワガママを他人に押し付けるような人種と付き合わなくてもいい状況になってほしいなとさえ思います。
それともう1つの魅力はその奥深さ。
だって、まだまだ現代の科学レベルではわかっていないことがたくさんあって、でも、先人たちは科学者がわからないことを何かしらの理由でわかって、素晴らしい技術を生み出してきたわけです。
なんでそれをやったらこうなるんだ・・・・
不思議なことはたくさんあります。
まあそれゆえに胡散臭いエネルギーもどきもいっぱい存在しちゃって、本当は全然治せてないのに治してる気になってるダメな治療家もたくさんいるのですが、そういう低いレベルの人の存在は仕方ないし、そういう人がいるから僕たちが患者さんに頼っていただけるという側面もあるので難しい問題ではありますね。
なんにせよ、奥が深いというのは探究心をそそります。
探究しないといけない、というわけではないですが、そういう魅力もあるよ、ということは覚えておいていただきたいです。
治療家という仕事の魅力を感じられるようになる条件
「どこがつらいですか?」と聞いてそこを揉んだりさすったり・・・・
「どうですか?」と顔色を伺って時間を伸ばしたり・・・・
「強さはいがかですか?」と聞いて「もっと強く」とか言われて内心「え〜、しんどいな」って思ったり・・・・
矯正的なテクニックを学んだところで、今まで時間かけてやっていたから患者さんの顔色を伺って「もっと時間かけないと次来てくれないんじゃ?」とビクビクしなければいけなくなります。
とはいえ、最初から治療の本当の魅力を感じられることなどありません。
これはスポーツでも勉強でもなんでも同じだと思います。
また、いくら解剖学や生理学を勉強して、刺激に対してどの受容体がどのように反応するかが頭でわかったとしても、その知識を駆使して意図的に自分の望む反応を他人の身体に起こさせようとするには、それなりに熟練された〝手〟が必要です。
もちろん、知識があるのは素晴らしいことですし、中級者から上級者になるためには絶対に専門的知識は必要ですので悪いことではありません。でも、頭でっかちで屁理屈をこね倒してしまう治療家になっては、伸びなくなってしまいます。
触診を含めた検査でしっかりと客観的評価ができるレベルであり、技術を施すことでそれをある程度意図的に変化させることができる。
さらにそれを検査で客観的に評価できる。
そういうことができるから「なるほど、これをこうすればこうなるのか」という検証ができるわけです。
もしかしたら、これはこうかもしれない
↓
やっぱりそうだったor全然違った
↓
そうだった場合は自分の仮説が実証されたことになるし、違う場合は新たな可能性を見つけるチャンスでもあるので、探究心が強い先生はすごく面白味があるんじゃないでしょうか。(実は僕はそこまで徹底した探究心を持ち合わせていないので、このあたりやっておられる先生はすごいなと思います)
ですので、先述した
触診を含めた検査でしっかりと客観的評価ができるレベルであり、技術を施すことでそれをある程度意図的に変化させることができる。
さらにそれを検査で客観的に評価できる。
これが治療家という仕事の真の魅力を感じることができる最低条件ではないでしょうか。
幸福の値段
今から超絶論理的な話をします。
キラキラ系がアメブロでアピールするような、そんな虚像的な幸せの定義ではない、リアルな話。
お金がすべてではない、と多くの人が言います。
日本は武士の文化が根強く残っていて、治療院業界では職人的なノリで自身の治療レベルや経営レベルの低さから目を背けるために〝武士は食わねど高楊枝〟的なことをアピールしてることもあります。
独身で誰にも迷惑をかけなきゃ勝手にすりゃいいのですが、資本主義の国でお金を稼がないって家族的には結構悲惨。
特に子供。
人間性がどうちゃらこうちゃら・・・・っていう綺麗事もいいけれど、良い教育を受けて論理的な思考ができる程度には脳みそ鍛えておかないと、大人になったときに困るのは目に見えてます。
都心部にお住まいなら、教育にかかるお金は高くなって当然。
(このあたり、実は田舎のほうが学年に数名した生徒がいないという状況があるので、教員の質次第では都心部の塾なみに勉強を教わる環境があるので、東大生や京大生の中にはものすごく田舎出身で地元の高校まで行ってたけど塾にも行ったことがないような子が入学したりします。まあこれは親の考え方もしっかりしている影響も大きいとは思いますが。)
ひどい表現だから反感覚える人もいるでしょうけど、バカは幸せになれないんです。
幸せの形は色々ある、と言います。
その通りです。
でもそれは、色々なことを選択できる自由の中から、その形を選んだ場合だと思います。
僕たちの仕事には定年がない、何歳まででも働けると言われます。
ちょうど定年を考える年齢の患者さんから「先生いいですね、定年ないからいつまでも仕事できますよね」と言われることもありますが、僕はゾッとします。
場合によっては〝老体に鞭打ってでも働き続けなければならない〟という状況になり得るということです。
僕はそんなの絶対に嫌です。
仕事をしたけりゃする、したくないならしない、そういう選択ができる自由を持っているかどうか、それが幸せではないでしょうか?
No pain,Nogain.なんて言葉がありますが、何かを選択するならこちらが犠牲になるというのは何ら自由ではないです。
都会?地方都市?田舎?どこに暮らすのか。
田舎暮らしに憧れる人は多いですが、自身が高齢者になったときに大きな病院が近くにないというのは、本当に快適でしょうか?
ということは、そのときの状況によって選択できるだけの自由がないと、それは幸せではないと思います。
そしてその〝選択できる自由〟を手に入れるために必要なのは、お金なんです。
悩みのほとんどは、お金で解決できてしまう世の中です。
欲しいもののほとんども、お金で手に入る世の中です。
大好きな貧乏人の男性と、普通に好きな大金持ちの男性どちらと結婚するかと女性にアンケートをとったところほとんどの女性が普通に好きな大金持ちを選択した、というアンケート結果もあったようですので、多少の愛もお金で解決できてしまうわけです。
資本主義の国で生まれ育ち、生きていく以上はそういうことなのです。
そりゃ急に億万長者にはなれませんし、タイの王様なわけでもないのでいきなり数億円のモノが欲しいときに買えるかどうか、なんてケタ違いなことは言いません。
しかし有給も退職金も定年もない我々、しかも団塊Jr世代以下は年金すらどうなるかわからない時代では、せめて日本国内の一部上場企業の自分と同じ年齢の会社員以上の稼ぎは持っていないと幸せとは言えないんじゃないでしょうか。
まとめ
治療家が治療家として悪魔に魂を売ることなく、心を削ることなく治療を提供し、それを理解してくださる低くない知性の持ち主の患者さんに囲まれながら、その状況を維持する中で出せる売上をしっかり出す。
そうすることで人生においてある程度の範囲でいいので自由に選択できる権利を持てるようになること、それが治療家の幸せではないでしょうか。