治療院経営ラボ代表の松村です。
僕は、バリバリの団塊Jr世代。
日本では8050問題とされる当事者世代です。

実は引きこもりというのは若い子に多いように思われがちですが、分母である人口が多いという一因もあるにせよ我々世代が一番引きこもりが多いです。

その原因は、僕たちが〝国から見捨てられた世代〟と言われた世代。
事実、常に国の方針変換に振り回され、その狭間で損ばかりしてきたと言っても過言ではありません。

大雑把に国というデカいものを見ても、日本の借金と言われるものは僕らの親世代が作ったもので、それを子世代の我々に押し付けている状況であり、いざ自分たちが高齢者になればコロナ騒動でもわかるように我々世代が困るような経済を止める施策をしてまで老い先短い自分たちを守るという方向性の中で、僕たちは常に親世代のケツ拭きをさせられているわけです。

ゴルフ場に行けば、そういう世代の人たちがトイレのないところで小便をし、至るところでタバコを吸ってはポイ捨てをし、レストランでは大声で下品な話をし、前の組はスロープレー、後上手なジジイなら何度も打ち込んでくる、そんなのが平日の安いゴルフ場の状況です。

親世代とバブル世代に散々ハラスメントをされて育ち、いざ自分たちが上の立場になったときには何を言っても何をしてもなんちゃらハラスメントだと言われ身動きが取れない上に、ゆとり世代の多くは義務を果たす前、義務を果たせるだけのスキルを身につける前からいっちょまえに権利は主張する。

そりゃ引きこもりたくもなりますよ。

さて日本という僕たちを見捨ててる国の話はこれくらいにしても、柔整業界においても同じようなものです。

かなり長くなりますので、今回から数回にわけて記事を書かせていただきます。
まずは僕ら世代の境遇を書いていきましょう。

若い先生はもしかすると「そんな時代があったって聞いてたけど本当だったんだ」と思うかもしれませんね。
また今回は別に章立てとかもしませんので、小見出しもありません。
読みにくいですが、興味のある先生だけ読んでいただければいいと思っていますのでご理解くださいませ。

ちなみにこのシリーズはPart6まであります。
Part6までお読みになるとPart6の記事の最後に自費移行したい柔整師の先生のためにとても良い情報を掲載していますので、ぜひ最後までお読みください。

 

さて、ここからは僕の境遇の話になるので、僕が近畿地方に住んでいて近畿地方より西の業界事情を含んだ内容になります。

 

僕がこの業界に入ったのは1995年だったかと思います。
色々ゴタゴタなことがあっての大学生からの転身。(阪神大震災に被災した、というのもあって)
この時期は実はあまり記憶にないくらい、人生においての転機になりつつもストレスフルなことが続いた時期でした。

もちろん、昔なので修業という名目で初任給は1万円。

当時は柔整学校に入るのにも強力なコネが必要、かつ順番待ちでした。
要するにコネの強さ=順番飛ばしなわけですね。

当時どういう事情かはわかりませんが、僕が学校に入れたのは1997年でした。

しかも、僕は柔整師に憧れて柔整師志望で院に入りましたが当時は「鍼灸からでないと入れない」と言われ鍼灸科を受験することに。

どうしても嫌がっていたのを当時の院長が見かねて「松村くん、そしたら第一志望は昼間部の鍼灸に、第二志望を昼間部の柔整にてみよか。受かればラッキーやからな」と言われました。

それを兄弟子に言うと「そんなんどうせ鍼灸になるねんて」と言われたので願書は第一志望は昼間部の柔整科、第二志望は夜間部の柔整科で出しましたが、合格したのは昼間の鍼灸科、そんな時代でした。

そして入学するには寄付金が必要。
寄付金以外の入学金だ授業料だの諸経費を計算すると、だいたい月10万円単位のコスト。

僕の場合は鍼灸200万円、柔整150万円の寄付金を支払い、月10万円×6年間の授業料ですから、合計すれば1000万円ちょっとのコストをかけてなりたかった柔整師になったわけです。

1995年に初任給1万円で院で働き始め、1998年の鍼灸2年生になるまでずっと1万円でした。
鍼灸2年生になって「松村くん、よくがんばってるから給料3倍にしたろ!」と言われ3万円になりました。

朝6時には起床し、朝7時には院に入り、掃除や包帯を巻く、パラフィンの洗浄などの下働きをします。
当時は弟子制度が当たり前だったので、助手で雇用されてるパートのおばちゃんにまでえらそうにされる始末。

業務は見て覚えろ形式で、できなきゃ殴られます。

院の診療が終われば、日付が変わるまでマッサージの練習で下手だクソだ、センスがないだ散々コキおろされながら指が痛いのを我慢して揉まされ続けます。

やっと終わったところから院内の掃除をして帰宅しますが、お金がないのでモヤシを焼いて食べて、腹が減る前に寝るという生活が続きました。
鍼灸科の3年間は給料3万円、鍼灸師になって8万円になりました。

この業界に入ってわかったことですが、学校に入れてもらったことはずっとついて回ります。

なので僕は鍼灸科に在籍している間に柔整科の先生と親しくなり、その先生の推薦という形で柔整科を受験。
その院は御礼奉公という形で柔整1年生の間まで勤務し、柔整2年生には西成で勤務しました。
ここで給料が13万円にハネ上がってむちゃくちゃ喜んだ記憶があります。

とはいえ、朝から晩までこき使われて残業代もなければ有給もないような環境で、ただ「学校に行かせてやってる、途中で抜けるのに雇用してやってる」という理由で安い給料で働いていたことには変わりありません。

そんな状況だったわけですが、ちょうど僕が柔整に入るときに福岡柔整ができました。
裁判をして判例を作ったあの学校です。

おかげで日本に20校ほど、沖縄から関西までには大阪府に3校しかなかった柔整学校が乱立し、僕らが払った寄付金なんぞ払わずとも、コネで何年待ちだとか鍼灸からでないと入れないとかそんな理不尽な障壁は消滅し、今までは「入れてください」と学生に頭を下げさせてた学校が「うちに入ってください」と頭を下げる側に回ったのは見ていて哀れではありましたが、それはその後自分が開業してから自分の身にも起こることであるとは、当時は想像すらしていませんでした。

一番損をしてきた世代の柔整師が赤裸々に語るPart2に続く

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です