治療院経営ラボ代表の松村です。

前回の記事の一番損をしてきた世代の柔整師が赤裸々に語るPart1では、僕がこの業界に入った1990年代はまだ柔整学校入学には強いコネと待機が必要で、僕の場合で寄付金総額350万円、学費は月10万円以上必要だったこと、そして修業という名目で学校に入れてもらったところで初任給1万円で殴る蹴るの世界で働き続けてながら学校に行っていたが僕が柔整に入るときに福岡柔整ができた結果、学校が乱立し寄付金もなくなり授業料も安くなり、ふんぞり返っていた学校は、逆に「お願いですから当校を選んでください」と言わないといけなくなるまでになったという話を書かせていただきました。

 

元々生まれてきたタイミングだけで、かなり損をしているわけですが、それに輪をかけて業界の変化によって大損こいたのが僕ら世代。
規制緩和?知らんがな。よそでやってくれや、という話だったわけです。

 

しかし当時はまだ夢がありました。
僕が柔整を選んだのは、中学生の頃から行っていた接骨院の先生に憧れたからです。

しかしその憧れの中には単に人の役に立っているとか、他者を喜ばせているという聖人のような理由だけでなく〝患者さんが頭を下げてお礼を言いながらお金を支払っている〟ということに高校生の頃に気づいてしまったからでした。

当時、家の近くにマクドナルドがあり、たまに行くと大学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんが坊主頭で身体だけでかいアホみたいな顔した僕に「ご一緒にポテトはいかがですか?」と敬語を使い、お金を支払うと「ありがとうございました」と頭を下げる、それが普通でした。

でも接骨院では逆のことをが行われるわけです。
どっちが僕の性に合っているかは明白で、それに気がついてしまったときは本当に全身に電気が流れたような衝撃を受けたものでした。

そしてその先生だけでなく、自分が通ってる道場に来られてる柔整師の先生も、それなりに良い車に乗っていました。

僕もそうなる、と決めてこの業界に入ったのです。

でも、いざ入ってみると「強さどうですか?」「痛くないですか?」とか、「もっと強く」と言われれば「はい、すみません」と言って強く揉むわけで、全然思った状況とは違っていましたが「俺が開業したときにはこんなクソみたいな治療院は作らない」と強く決めて日々仕事をしていました。

そして理想の接骨院を作り、繁盛させ経済的にも成功する。

子供時代から色々あって貧乏を経験したり、家庭崩壊を目の当たりにしていた僕は、お金がどれほど大事で、お金がないことがどれほど惨めで人をダメにさせるかを知っていましたので、武士は食わねど・・・ではなく、しっかり稼いで力をつけ裕福な暮らしをするということの重要性を理解していました。

もちろん患者さんに喜ばれなければいけないし、お金のためだけに仕事をするわけではないですが、開業して治療を頑張れば患者さんは集まってそれこそベンツに乗るのも夢じゃない。

当時はどっぷり柔道をしていましたので、開業して成功したら広い土地を買って1階は接骨院、2階はジムと道場を作って、自分の出身の道場に使ってもらって自分もそこで柔道の指導をしてお世話になった道場に恩返しして・・・なんて思い描いていました。(まあこれはその道場にも裏切られるという状況になったので、結果論的にはもしそんなの作ってたら大変なことになってたわけですが当時精神的にはすごく参りました。記事のテーマでないので詳しく書きませんが、あることないことならまだしも、ないことないことを言いふらされ悪者にされ最悪な状況でした)

ちなみに当時はレセプト的なことには一切携わらせてもらえなかったので、僕は接骨院というのは病院と同じようになんでも保険で診れると思っていました。

厳しい修業という名目の労働を続け数年経過すると、分院長をするようになります。

その頃にはもう、置き換え請求に対して何の違和感なくやっていました。

いや、むしろ自分の夢を叶えるためには仕方ないし、なんならそういうふうな文化なんだし、みんなやってんだから来てない人を請求したり、来てない日に来たことにしたりさえしなけりゃ不正じゃない、くらいに思っていました。

そしてもちろん、保険者も今のようにうるさくありませんでした。

 

そして時間は経過し、開業。
ようやく夢を掴むための第一歩が踏み出せると思っていました。
僕は置き換え請求で夢を叶えようとしていました。

しかしその頃にはもう、5部位請求できていたのが4部位になり、理由書きしないといけなくなり、回答書を郵送する保険者が増え、マスコミが置き換え請求のことを騒ぎ出し、厚労省も今までほぼ黙認してたやんけって感じなのにトカゲの尻尾切りのように手のひらをクルリ。(某公的団体にいたらわかるんですけど、行政もある程度はわかってたんですよ。ある役人と話したときは、整形に行かれるよりも単価安いわけだし・・・みたいなことを言ってた時代もありました)

置き換え請求はいけない、そんなことはわかってます。

でもね、みんなやってきてたやん。
それで裕福な暮らししてたやん。

なんで俺だけしたらアカンのや?

そう思いましたし、それは当然の反応だと思います。

僕が開業して2、3年経過した頃には、柔整師から見た〝柔整業界の古き良き時代〟は終焉を迎えたわけです。

それだけではありません。

保険の単価も元々安いわけで、僕が修業していた当時、なぜあんなに広いテナントを借りて、ベッドたくさんおいてって経営できたのかというと、人件費がべらぼうに安かったということに気づきました。

僕で給料1万円ですから、10人雇用しても10万円ですよ。
それで当時はみんな殴られても蹴られても文句を言わず必死こいて働いてたわけですから、そりゃ経営者は儲かります。

僕が開業した頃はすでに労基だなんだと言われ、大手グループ院が有給まで与えるようになり、僕のようなたった15坪の院で2、3人雇用して・・・ではどれほど頑張ってもそれほどお金が残らないことに気がついたときにはもう開業してしまった後だったというわけです。

権利ばかり主張するスタッフでも雇用しないといけない(と思い込んでいた)から、大きなストレスを抱えながら日々整骨院をやっていました。
年数を重ねるごとにレセプト枚数は増えても請求額が変わらない、もしくは落ちるというジレンマに頭を抱えながら、毎月の人件費と借入金返済のために出ていく金額は月100万円ちょっと。

借金とスタッフのために一番頑張って仕事をしてストレスで30代前半で高血圧(220/110までいきました)と無呼吸になり、さらに毎日夢の中でスタッフに怒って、その叫び声で夜中に目が覚めて寝不足になるという悲惨な状況まで追い込まれながらも、頑張りました。

それだけでなく、公的団体でも執行部に入り、業界のための仕事も続けました。
それがステータスだと思っていたし、そういう文化で育ったし、そう教えられたから。

心を殺し、魂と命を削って仕事をし、それでもなお世の中は僕ら世代に試練を与え続けていきます。

一番損をしてきた世代の柔整師が赤裸々に語るPart3に続く

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です